陸奥宗光伯の略年譜  

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 陸奥宗光伯 年譜 [略式]

 

 

弘化元年(1844年) 7月7日、紀州藩勘定奉行 伊達藤二郎宗広の6子として、和歌山城下に生まれる。

嘉永5年(1852年) 父宗広、失脚により田辺城の城下に幽閉される。

嘉永6年(1853年) 家族は高野山麓の鯉沼村(旧高野口町、九度山町近隣)に十里所払いとなる。

地域の方々のお世話になり、日々の生活を送る。(幼名 牛麿 九歳)。

15歳の時に江戸に出て蛍雪苦学し、尊王攘夷運動の志士と交わる。(この頃、中村小次郎と称す)

文久2年(1862年) 宗光、京に上る。坂本龍馬と知る。

文久3年(1863年) 勝海舟の私塾、摂州神戸村海軍塾に入塾。土佐藩亡命の士、坂本龍馬と行動を共にする。

慶応元年(1865年) 坂本に従い、鹿児島・長崎に至る。伊達陽之助、陸奥小次郎、源二郎などを称す。

翌年、亀山社中に属し、海運・商事を学ぶ。

慶應3年(1867年) 坂本龍馬の海援隊に入隊。十一月、坂本暗殺される。十二月、坂本の復讐戦を主唱活躍。その後、大坂に赴き英国公使パークスに面会し、維新後の外交問題につき深く談論、直ちに入京し、新政府の岩倉具視に面会、維新の急務として開国進取の政策を説く。

明治元年(1868年) 1月岩倉具視の推挙により、外国事務局御用掛として官途に就く。6月大阪府権判事。

この頃、紀州藩主茂承の懇望により、藩の危急を救う。

明治2年(1869年) 1月摂津県知事(後に兵庫県知事)。10月和歌山藩庁に出仕し、藩政改革に従事、兵制を整備した。その兵制は諸藩の注目するところとなり、さらに改革は教育、産業、生活様式の変革を導き、近代和歌山の出発点となった。

明治3年(1870年) 和歌山藩欧州執事として渡欧。

明治4年(1871年) 5月帰国後は、和歌山藩権大参事、7月廃藩置県、8月神奈川県知事を歴任。

明治5年(1875年) 6月、祖税頭に任じられ大蔵省に出仕、田租改正を建議(後に地租改正となる)し、我が国の近代化の基礎を固めることに貢献した。

明治8年(1875年) 立法府として元老院が設置され、元老院議官、元老院幹事となる。

明治11年(1878年) 自由民権運動の土佐立志社事件に加担の旨、禁獄を申し受ける。明治15年の

特赦を受け、翌16年放免出獄。東京や和歌山で歓迎される。

明治17年(1884年) 米国、欧州各地に外遊。同19年に帰国後、外務省公使に任じられる。

翌20年、特命全権公使に任じられる。

明治21年(1888年) 米国特命全権公使としてワシントンに赴く。日墨修好通商条約に調印し、我が国最初の対等条約締結。

明治23年(1890年) 山県内閣の農商務大臣に任ぜられる。第一回衆議院総選挙に和歌山県より出馬当選。

明治25年(1892年) 内閣総理大臣伊藤博文より外務大臣に任じられ、政府の懸案であった不平等条約の改正案として、

対等条約案及び交渉方針を閣議に提出。

明治27年(1894年) 7月16日、明治政府が最重要課題として着手した条約改正交渉は、陸奥宗光外務大臣と青木周蔵英国公使の尽力により、日英通商航海条約がロンドンで調印され、領事裁判権の撤廃、関税自主権の部分的回復、相互の最恵国待遇に成功した。この不平等条約は、我が国の国家主権を取り戻すという、国威を懸けたものであった。その功績を以て特綬を賜り、子爵に叙せられた。同年8月に日清戦争が勃発したが、大日本帝国外務大臣陸奥宗光の折衝は、ことごとく適宜を得た。

明治28年(1895年) 4月下関に於いて、清国全権の李鴻章との間で講和条約が締結された。この勲功を以て伯爵の特綬を賜り、旭日大綬章を授けられた。

明治29年(1896年) 5月、激務の末、病により退官。

明治30年(1897年) 8月24日 薨去。(享年54歳)。

 

明治40年(1907年) 10月24日 外務省(当時)正面に「伯爵 陸奥宗光公銅像」竣成。除幕式挙行

昭和18年(1943年) 大東亜戦争時、供出のため 銅像撤去。

昭和41年(1966年) 12月15日 外務省東口玄関横に「陸奥宗光公銅像」再建立。除幕式挙行。

昭和46年(1971年) 8月24日 和歌山城南東の岡公園に「陸奥宗光先生乃像」銅像建立。除幕式挙行。

[ 陸奥外務大臣は在籍4年間に、欧米列強15か国と締結されていた不平等条約をすべて改正しました ]

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